コラム Column

6月のコラム 2020年6月

雑感<その5>

声の技法について


 「声」について考えたとき<不意に発する声、叫声>と<ある程度統御して発する声>とに区分できる。後者を一般に「音声」と呼んでいる。


 「音声」、日常生活に於ける音声は、大別すると<話声><歌声>に分けられる。この両者を比べてみると歌声は話声に対して、広い音域と豊かな音色、正確で繊細な動きと強弱、発音表現の明晰さ等、かなりの表現力を必要としている。


 さらに大切な要素に「共鳴」がある。「声」を美しく豊かに表現するためには、この「共鳴」に満ちていることがなによりも大切であり、ピアノやバイオリンがその製作において伝統的に美しい響きを求め続けられていることは周知のごとくである。 そのことから、私たちの身体を考えてみたとき、身体はもともと美しい<響き>を目的としているものではない。複雑な器官・機能のたゆみない訓練の積み重ねによって駆使し、声が「楽音」となり得るよう研究しているのである。この研究過程を『声の技法』と呼んでいる。


 それでは声楽における「声の技法」について述べてみるが、はじめにその「目安」をどこに置くかということから進めてみよう。


 私たちのまわりに奏でられている音楽の領域は広い。その中で「言葉」を扱うことのできる楽音は「声」だけである。言葉を扱うということは「詩」を理解し、感じ、表現することである。すなわち「歌う」ということである。言い換えるなら「歌う」ということは詩的な世界にアプローチする行為であり、そこでは詩人のような感性とスポーツマンのような機敏な肉体(発声体)が要求される。


以上歌唱者に対する第一の課題(目安)である


 次に、声楽における「言葉」と「音楽」の関係は古くから論じられているが、その例を中世以来、ヨーロッパ音楽の頂点として開花したロマン派の作曲家、J.ブラームスとH.ヴォルフの歌曲を例に考えてみる。
E.ヴェルバ(世界的な歌曲伴奏者)は著書の中で「ブラームスの意識的に悠然とした創作とヴォルフの忘我恍惚とは、既に音符の姿に於いて極端な対照となって表現されている」と述べているが、私の実践研究からの所感を加えるなら「ヴォルフの音楽は詩人の心に沈潜し、詩の内容や抑揚から旋律が生まれている」と言えるのに対し「ブラームスの音楽は常に意識的で悠然とした旋律の造形美に満ちている」と言えよう。


 この二人の作曲家に代表されるように「言葉」が大切か、「音楽」が大切かについての問題は、これからも論じ続けられるであろうが、演奏者である私は、端的にそのいずれをも大切であると考えねばならない。なぜなら、声楽表現の基礎「発声」は、発声器官で行われ、「言葉」は、言語器官で行われているからである。言葉を軽視した発声器官に偏った声、反対に言葉の強調のあまり起きる声の欠陥はいずれにしても音楽表現上効果的ではない。


 このように「声」が声楽表現の重要な役割(素材)にあり、音楽が作曲・演奏の二元芸術から成り立っている以上、声の存在を無視し論ずるわけにはいかない。そこで、この両者(言葉・音楽)が互いに作用し合いながら、合理的な道筋を発見し、起点とした『声の技法』が考えられなければならない。


以上歌唱者に対する第二の課題(目安)である。


 けれども、声楽には「言葉」が音楽以上に「音楽」を感じさせる場合もあれば、「音楽」が「言葉」では表現でき得ないものを伝えている場合もある。前者はフランス・シャンソン等に発見できるし、後者はヨーロッパ中世の音楽、グレゴリオ聖歌やイタリア・オペラ等に見られる。
同様に、歌唱者の表現上の特性においてもいえよう。F.シューベルトやJ.ブラームスの旋律線の造形を優先させる歌唱者、R.シューマンやH.ヴォルフの言葉による動きを優先とする歌唱者の存在もある。
 以上二つの課題(目安)について思索してみたが、それでは『声の技法』をどのように認識し要約すれば、、については次回「雑感6」で述べてみたい。


雑感<その4>

  「新型コロナウイルス」は中国に端を発し、瞬く間に世界中に拡がってしまった恐ろしいウイルスである。人々は不安に慄きその拡散(パンデミック)を恐れている。 先ごろ某合唱団内のクラスター報道以来、歌う事への偏見は誠に困ったものである。


 歌曲アンサンブル研究会<例会>は自粛を余儀なくされ、従来の例会は暫くの間延期とすることとなりました。
それに替わりオンライン講座を企画、研究に重きを置いての活動を進めています。
本自粛期間中以下所感を記してみました。


歌曲について
 主にドイツ・ロマン派歌曲についての所感を述べてみよう。ドイツ歌曲は19世紀に栄えた芸術文化の典型的な落とし子と言えよう。

 

 歌曲とは、本来心に受けとめられた感情や印象を音楽的感性によって昇華されたものでありそこには繊細な感受性が伺える。“空に舞う雲、夜空の星、野辺に咲く草花そこに鳴く虫の声”これら自然の動きや日常生活にある“平凡な事物”に生き生きとした<生の姿>を発見し、与えられる心、そこには充実した「生命感情」が満ちている。


 例をあげるなら、芭蕉の句「古池や蛙とびこむ水の音」彼の代表作であるこの句に、 鈴木大拙は解説している。


 ~芭蕉が<水の音>を聞くまでは蛙だの池だのと所謂客観世界は全く存在しなかった。
その価値が芭蕉によって認められたとき、それは芭蕉にとって一客観世界の端緒または創造であった。それ以前の古池は無かったも同然なのである。それは一片の夢にすぎず何の実在もなかった。芭蕉が蛙のとびこむ音を聞いたことに触発されて、詩人自身をも含む全世界の面目が無から跳ねり出たのである。この作者にとって、我は古池であり、我は水音であり、我は実存のこれら全ての個々別々の単位を包含する実在そのものである~と。

 
 

 さて、そこで私たちは多くの巨匠といわれる人たちの音楽作品を研究するとき、次のように要約できるものと考える。
 ・繊細な感受性
 ・表現のための厳しい基礎訓練
 ・最も適切な理性(知性)
 ・豊かな環境での多くの経験

 

 具体的には、先の巨匠たちの作品を手にし、その秘奥に宿る芸術性を発見し豊かに奏するためには積極的な「技術・知識・能力」の獲得に励まねばならない。

 

  「技術的」には、声楽の場合、呼吸法・構音法(アーティキュレーション)・読譜力・リズム感・記憶力等、さらに音楽の演奏法を根気よく学びその能力を高めることである。 これらは師の適切な指導・助言のもとでの錬磨が適切であろう。

 

  「思索面」では、作曲者・詩人等の味わい深い人生の調べに触れながら音楽の歴史性や時代性についてできる限りの手段と方法を求め洞察することである。そのためには語学的・文学的・哲学的等の思考が背景となるであろう。

 
 

 これらの「専門的訓練・学問的研究・芸術的洞察力」を求めていくことが何よりも大切となり、それは個人的研究が基調になるものと考える。
その意味でもう一度巨匠たちの作品にふれてみよう。それは芸術的な心の吐息に思え人生の愛の響きのように伺える。

 
 

 「音楽」それは人間の心の燃焼であり人生の響きであろう。この伝統ある音楽の語りかけに対して私たちは常に情熱をもって実践的に表現していかねばならない。
それは極めて主観に基づいた客観性が求められ、創作者・演奏者・聴者によって語句では表し得ない心の世界が展開されるものと考える。


代表 渡邊 一夫