11月のコラム 2020年11月
雑感<その8>
「歌の世界」~美的規範~
「歌」には、その人(作曲者・演奏者)の素顔が反映されているといわれるが、「歌」は創ろうと思っても創れるものではない。日頃の何気ない心の動きが音楽的感性に共鳴し表現されているものと考える。
そこで私は自身の演奏経験そして今日の音楽教育に於ける所感を併せて「歌の世界」と題し述べてみる。
具体的には、W・A・モーツァルト、F・シューベルトを語りながら学校教育では触れられていない人間のありのままの姿を指摘し、それが「美的感性」として表現されているヨーロッパを例に思索してみた。更に人間の感情に関係深い文化を考慮したとき、この自由な人間性を支えているヨーロッパの「共通の思想」(美的な感性はその一例である)が美的規範として位置付けられていることについて指摘してみたい。
W・A・モーツァルト、彼の書簡集の中に有名な「ベーズレ書簡」があるが、彼は臆面もなく卑猥な言葉を連発し、健康的なエロティシズムを発散させている。一説によるとモーツァルトがこのような品性のない言葉をはやしたてている時は内心豊かな“楽想“が沸いているときといわれている。このようなモーツァルトに対して「教科書」の中では、あくまでも「神童」(特にウイーン郊外の離宮シェーンブルン宮殿での神童ぶりは逸話風に有名である)として賞賛され、彼の糞尿譚(スカトロジー)に関する健康的な”笑いや遊び“については何ひとつ触れられていない。
驚くことに彼の音楽の中に「ウンチの歌」(Caro mio Druck und Schluck K.571a)がある。大変堂々とした美しい曲想で声楽アンサンブルの世界を見事に表現した名曲・重唱である。私はかつて所属していた演奏団体「ムジツィーレン」で下記タイトルで演奏の経験がある。
〇第6回「独唱と重唱によるモーツァルトの夕べ」昭和50年11月 東京薬学会館ホール
〇ムジツィーレン特別演奏会(ルーテルアワーコンサート)「独唱と重唱によるモーツアルトの夕べ」、昭和52年(東京ルーテルセンター・チャペル)FM東京放送番組「夜の名曲」公開演奏会(実況録音放送)
本曲は、詩の内容と曲想のアンバランスは、彼の性懲りのない天衣無縫な性格を表しているよい例である。
F・シューベルト、彼は弱冠31歳の若さで長年梅毒に苦しみながら貧困のうちに伝染病を併発してこの世を去ったという。文字通りのボヘミアンである。本人は涙ぐましい努力をしたにもかかわらず生涯陽の当たることはなかった。そんな彼が「僕は度々自分がこの世に所属していないような気がする」と語っているが、絶望の深淵に立たされながら“夢見る理想の世界”を求め続け、バラ色の愛の調べ<セレナーデ>を歌い、音楽への感謝<音楽に寄せて>を歌っている。
彼の抒情(憂愁)にみちた600余曲の美しい音楽(歌曲)、なかでも死を目前にしたあの最期の作品「鳩の使い」(歌曲集“白鳥の歌”終曲)は、彼の人生を象徴する作品として指摘したい。そしてこれらの楽曲の背景に絶望の人生を呻吟しているシューベルトの姿を思い浮かべたとき教科書にある“歌曲の王”としての賞賛はあまりにも短絡的な捉え方であるとして違和感を感じずにいられない。
「歌の世界」は、このように歴史の中の、音楽の中の、個人の中に於ける「陰の部分」をいかに品性を失わずに表現するか、ヨーロッパでは昔からこれらを「美的感性」として、健康的に自由に処理できる『共通の思想(美的規範)』が息づいていることを発見するのである。