コラム Column

中田喜直生誕100周年に寄せて 2023年9月

中田喜直と西欧音楽


朝の連続テレビ小説『らんまん』で、要潤扮する田邊教授が「これからフランス人音楽家を招聘するべく…」と話すシーンがあった。実際、明治初期、西欧音楽を取り入れるのに、西欧のどの国に範を取ろうとしたか…最初は、少なくとも軍楽隊、吹奏楽関係にはフランス人音楽家が招かれていたようであり、その後政府の思惑や、ドイツ人音楽家とフランス人音楽家の人脈争いの結果、ドイツ音楽が日本では主流になったというような事情もありそうである。かくて日本の楽壇はドイツ一辺倒になり、それが21 世紀も四半分過ぎようとしている現代にも続いていると言えなくもない。

多くの声楽曲を世に送った山田耕筰(1886-1965)は、独墺圏に留学し、Richard Strauss(1864-1949)に、作曲家としても指揮者としても深い敬意を持ち、影響を受けているが、一方で、「日本独自のものを音楽として表現する」ためにはそれだけでは足りないと考えていた。Aleksandr Nikolaevich Skryabin(1872-1915) の神秘主義,そしてClaude Debussy(1862-1918)の音楽に大変関心を持っていたようで、東京音楽学校に作曲科がなかった時代に声楽科を卒業した彼は、1919 年にドビュッシーの歌曲『鐘Les cloches』『樹かげL'ombre des arbres』『涙はわが胸に注ぐIl pleure dans mon coeur』『夕べの響きL'harmonie du soir』などを自身の声楽リサイタルで歌唱した。これが日本におけるドビュッシーの歌曲の最初のまとまった公開演奏ということである(没後わずか1 年)。また翌年は指揮者として『放蕩息子L'enfant prodige』『牧神の午後への前奏曲Prélude à l'après-midi d'un faune』を取り上げていることからも、山田のドビュッシーに対する関心の深さが判る。このあたりがたとえば、同年配で同時代を生きた、ドイツの古典派をあくまでベースとした信時潔(1887-1965)と好対照をなしていると言えそうである。

橋本國彦(1904-1949)は、信時潔に作曲の手ほどきを受け、やはり同様にドイツ音楽の影響から出発したが、フランス滞在経験がある詩人深尾須磨子(1888-1974)との出会いにより、Debussy、Maurice Ravel (1875-1937) に興味を持ち始める。やはりフランスに留学し、日本におけるフランス歌曲演奏の本格的な始祖と言えるソプラノ荻野綾子(1898-1944)が演奏した、深尾須磨子の詩による『斑猫』『舞』は、日本独特の音楽と西洋音楽を理想的に結びつけた作品として当時センセーショナルなものだった。

中田喜直(1923-2000)は『早春賦』の作曲者中田章(1886-1931)を父に持ち、兄はやはり作曲家の中田一次(1921-2001)という音楽一家であった。自身の記述によれば、実兄一次が東京音楽学校作曲科への入試準備を始めて、「平行五度、平行八度は禁止」などとやっているのを見て、あんな理屈っぽいことをするのはいやだ、作曲科には行くまいと考えてピアノ科に入学したそうである。入学後の和声の授業で彼の担任となったのは幸運にも橋本國彦であった。幸運にも…というのは、こうした授業は学生の希望ではなく、機械的な名簿の割り振りだからである。橋本の指導は「無味乾燥な規則」の授業ではなく、大変音楽的であったことを中田は語っている。こうしたことはたとえばパリ国立高等音楽院の和声教育などにもある問題点であって、「点数を引かれない完璧な答案が書ける」ということと「音楽的」ということは時に一致しないのは、たとえば名教師と言われたHenri Challan(1910-1977)の“功罪”について筆者自身がフランス人音楽家からいろいろ聞いたことからも判る。Challan については、日本では、三善晃(1933-2013)も、押さえた筆致ながらかなり批判的な文章を書いているが…

第二次世界大戦で完膚なきまでに叩きのめされた日本は、しかし再興の機会を得たとも言える。兵役から戻った中田喜直は、新しい音を模索していた。それまでの日本の土臭い音楽にただ西洋和声を付けただけではない音楽、それまでとは違ったムーヴメントの音楽。三好達治(1900-1964)の詩集を読んでいて『甃のうへ』の楽想が突如浮かび、それから爆発的に多くの歌曲を書いたと語っているが、それまでの日本の歌になかった軽やかな音の運び、詩の語りかけは、戦後10 年ほどに書かれた合唱曲などとともに、当時は大変新鮮な印象を人々に与えたものと思われる。新しい音の響き、音の運びということについては、ソプラノ浅野千鶴子(1904-1991)によるフランス歌曲の演奏にも多くの刺激を受けたと語っている。
新しい音作りの模索、という点で、『三好達治の詩による歌曲集』『マチネ・ポエティクによる四つの歌曲』は興味深い。前者の第二曲「すずしきうなじ」は明らかにGabriel Fauré(1845-1924)に刺激されたあとが伺えるし、後者では、福永武彦(1918-1979)加藤周一(1909-2008)と言った仏文学者たちが、西欧の詩のような韻の踏み方を日本語の詩でも試みるというマチネ・ポエティクの運動の中で作られた詩を取り上げて作曲するという試みをしている。

現代の目で見れば、あまりにフォーレの剽窃になってしまっている部分があったり、マチネ・ポエティクという運動にしても、日本語でそうした韻を踏むと何だか語呂合わせのようになってしまったりで、必ずしも成功してはいないところもあり、現実にすぐ廃れてしまったのであるが、しかし「新しいものを作る」という意欲はやはり評価するべきであろうし、中田喜直作品が、現代の声楽家や声楽を学ぶ学生まで長く歌い継がれているということは、多くの芸術作品に見られる「時の流れに耐えた」ということなのだろうと思われる。

(武田正雄~22年の滞仏後2006年より日本での教育・演奏活動を開始。現在東京音楽大学及び同大学院講師、研究団体Mouvement perpétuel主宰。フランス音楽コンクール審査委員長、国際声楽コンクール東京副審査委員長)


武田正雄