プ ロ グ ラ ム・ 解 説
「歌曲の曙」をめぐって
人は太古の時代からいろいろな想いを歌に口ずさみ、それと共に多様な楽器を産み出してきました。時代を経て、歌曲そして芸術歌曲にまで高められるまでには長い歴史がありました。
「芸術歌曲」、私達はこの形式を“詩人が言葉で書いた一つの世界を声とピアノ(楽器)による音楽によって表現したもの” “詞(ことば)と音楽が一つになってその情感を表しているもの”と考えています。詩、声、ピアノ三者の出会いによる共同作業によって、どんな短い曲にさえ人間の思想や人生観いうなれば“小宇宙”といわれるものが表現されるのではないでしょうか。
17世紀ドイツ文化圏では、ルターが偶像崇拝を禁じまた長く続いた宗教戦争の影響で財政が疲弊したため、プロテスタント教会はイタリアのように絵や彫刻ではなく、オルガンや合唱など音楽を使って聖書を表現しました。その代表的な働きをしたのが1685年生まれのJ.S.バッハです。
J.S.Bach 主よ、人の望みの喜びよ ピアノ連弾
G.ヘンデルはバッハと同じ年にドイツで生まれましたが、ドイツ文化圏を出なかったバッハと違い、イタリア、イギリスで見聞を広げバロックオペラも創りました。当時のオペラはイタリア語で作られていて、そのアリアは19世紀にパリゾッテイによって編曲された「イタリア古典歌曲集」にまとめられています。
G.Handel 樹木の陰で
A.Scarlatti すみれ
18世紀後半、封建制度が崩れフランス革命の「自由」「博愛」「平等」の風がウィーンにも吹いていた頃、つまりW.A.モーツァルト、L.v.ベートーヴェンの時代の声楽はオペラが主流で、歌曲の作曲というのは自筆の楽譜をプレゼントとして誰かに贈るといった片手間仕事でした。そのためにモーツァルトの作品は生前に印刷されたものは少ないものの、文豪W.v.ゲーテは、『もしモーツアルトが生きていたら自作の「ファウスト」のオペラ化を頼みたかった』と言っています。「すみれ」は短いオペラともいえるでしょう。
W.A.Mozart すみれ(ゲーテ)
さてドイツ文化圏の人達は、先進国フランスが太陽王ルイ14世の絶対王政からフランス革命ナポレオン戦争を経たのを横目で見ながら、自分たちのアイデンティティ―を模索していました。そしてフランスをただまねるのではなく、自分達の歴史をたどりそのルーツを知るために祖先の法律、民話、民謡を収集し始めました。文豪ゲーテに代表される作家達がドイツ精神あふれた小説、演劇、詩を書き、これに触発された音楽家が19世紀の幕開けと共にドイツ歌曲の世界を開花させていきました。まずウィーンのF.シューベルトがその短い生涯に百花繚乱の様な600曲を超える歌曲(リート)を遺し、言葉やピアノから切り離されてもなお魅力的なその音楽は、民謡の精神に密接につながっていることが示されています。歌の伴奏として従属的だったピアノのパートは、叙景のみならず詩の内容を心理的に暗示したり、それまでのリートに類のない詩情を添え、時には歌を超え雄弁に一曲に込められた世界を物語っています。シューベルトが伴奏を固有のものとして個性を際立たせたピアノパートとして歌曲全体に位置づけたことにより、ここに詩、歌、ピアノ三者による「芸術歌曲」が確立されたと言ってもよいでしょう。
F.Schubert のばら(ゲーテ) 鱒(シューバルト)
F.Schubert 糸を紡ぐグレートヒェン(ゲーテ)
老ゲーテに音楽の神童として認められたF.メンデルスゾーンの歌曲は、メロデイーラインが美しく有節形式で誰にも親しみやすい曲が多いようです。シューベルト、メンデルスゾーンともに、デユエットもたくさん作曲しました。
(Duett) F.Schubert 光と愛(コリン) F.Mendelssohn 私の思いを (ハイネ)
R.シューマンは文学に造詣が深く、シューベルトの「歌曲」やベルリオーズの「幻想交響曲」のすばらしさをいち早く見抜いて自身が発行した「音楽のための新しい雑誌」で紹介しロマン派への大きい流れを作りました。彼は最もロマン派を体現した人生をおくった人であるとも言われます。1840年にピアニスト・クララと結婚したことによって「僕は一日中ナイチンゲールのように歌っていたい」と手紙に書くほどに「歌曲作曲家」の天分が一気に花開き多くの歌曲が生まれ、この年は「歌の年」と呼ばれています。
R.Schumann 献呈(リュッケルト) リスト編曲 ピアノ独奏と歌
R.Schumann くるみの木(モーゼン)
R.Schumann ズライカの歌(ゲーテ)
19世紀のイタリアではオペラが大勢をしめていました。V.ベッリーニはナポリ音楽院でD.スカルラッティなどナポリ楽派の作品やモーツアルトの器楽曲を学びオペラ作家として活躍しつつ、単純ながら気品のある歌曲を遺しました。F.P.トスティは歌曲の作曲だけに専念し、その流れるようなメロデイーと叙情的で品格の高いハーモニーは、人々の心をそそりました。S.ドナウディーはバロック時代の詩の形式を選び、19世紀の作曲家らしく楽譜には演奏への指示が細かく書き込まれています。
S.Donaudy 限りなく優雅な絵姿 (A.ドナウディ)
V.Bellini (Duetto) 平和の天使(「テンダのベアトリーチェ」より )
F.P.Tosti 理想の人(エッリーコ)
一方19世紀には貴族や市民上流階級のサロン風の集いばかりでなく一般公開の音楽会が盛んになりました。ヴァイオリニスト・パガニーニやF.リストのような非凡な才能の演奏家の登場によって独奏楽器のコンサートが多く開かれ一般化するにつれ、コンサート向きの歌曲が作られるようになり華麗で外面的な効果で聴衆をひきつけました。多くの場合人気のあるオペラ歌手によって歌われ、声楽技巧を伴った劇的な変化をもちピアノパートもより雄弁になりました。リストは歌曲を数多く作曲し、またシューベルト、シューマン等の多くの歌曲をピアノ独奏曲に編曲しましたが、それらはアマチュアが歌って楽しむというより名歌手が歌うのを聞き惚れるという形のものでした。
F.Liszt 愛の夢(フライリヒラート)
J.ブラームスはR.ワーグナーとH.ヴォルフの間の時代にウィーンで活躍しました。『厳格な有節歌曲こそすべての歌曲形式の最高のものである』と述べ、16世紀のドイツ民謡まで研究した人ですが、シューベルト、シューマン、ヴォルフのように、詩を読むと泉のように湧き出てくる音楽をペンで大急ぎ書き留めるという手法ではなく、気に入った詩を反芻して、時間をかけて曲を構築しています。時に歌声部でおさえられた情感がピアノパートに溢れ出ており、シューマン、クララへの尊敬と友情、そして音楽家として世に出してくれた恩師シューマンの自殺未遂によって道義的にクララとの愛を貫くことができなかった彼の押えられた情熱が背後にひそんでいます。諦念をもつ詩に魅かれ生まれた歌曲は、作曲者ブラームス自身の特別な内的な世界が一つの形となって、日記とも言える優れた作品になっています。
J.Brahms ハンガリー舞曲より 1番 ピアノ連弾
J.Brahms 永遠の愛(ヴェンツィヒ)
歌曲創作に全エネルギーを注いだH.ヴォルフは300曲を超える歌曲を作曲しました。一人の詩人の個性的情感にひたりきりそこから音楽的霊感を得、集中して作品を生み出しました。彼は詩の内容、韻律を第一に重んじ朗読調の節をつけ、作曲家自身の自己告白ではなく客観的な「芸術作品」に仕上げました。巧みな絵画描写をピアノパートが担うことが多く、和声進行は詩との関連が密接で、印象主義を先取りした手法を思わせます。ヴォルフは演奏会で必ず詩を最初に朗読したと言われ、詩を理解し表現する知性と技術、豊かな表現力が歌い手、ピアニストに要求されます。
歌曲には自ら歌って楽しむのと、人に聞かせるのとの二つの要素がありますが、ヴォルフの作品は後者で聴衆を前提として演奏することになります。この区別はシューベルト、シューマン、ブラームスでは明白でありませんでしたが、これ以降R.シュトラウス、G.マーラーでは、創作の段階で意識されるようになりました。
H.Wolf 春だ!(メーリケ)
H.Wolf あの国をご存知ですか(ゲーテ)
コンサート歌曲として作曲されたR.シュトラウスの150曲の歌曲は、シューベルト、シューマンを土台とし、リストの華やかさと流麗さ、ワーグナーの和声を受け継いでいます。ピアノ伴奏よりも管弦楽伴奏を好み、声楽にヴィルトゥオ―ゾ的技法も取り入れ、声の魅力が広い聴衆に訴えかけます。『歌曲にとって重要なのは旋律全体のもつ流麗さ、生命力のある美しさ』だとして、音楽を歌詞に従わせるのではなく歌詞を彼の解釈に従って生かし、燃え尽きる蝋燭の最後の輝きのような後期ロマン派の作品を生みました。19世紀後半は歌曲だけの演奏会形式が定着し、ブラームス、ヴォルフ、マーラー、シュトラウスが、名歌手の歌曲演奏会のピアノをうけもっていました。
R.Strauss 万霊節(ギルム)
フランス歌曲はL.H.ベルリオーズやC.グノーの作品を経て19世紀末に花を開かせました。E.シャブリエの歌曲はユーモアと喜びを特徴として、すべて有節歌曲ですが歌詞の韻律に合わせてリズムが巧妙に作りかえられています。G.フォーレにはグレゴリオ聖歌、ルネッサンス期の教会旋法の影響がみられ、叙情的な歌声部がピアノの受け持つ微妙な流動的に変化するハーモニーと結びついています。メロディ、言葉のアクセント、そしてリズムの変化が見事に調和し、以後のフランス歌曲の礎をつくりました。C.ドビュッシーはワーグナーに魅かれましたが、バイロイトに行ってその限界を感じ彼の手法から離れ、教会旋法、五音音階、全音音階等多様な旋法を用いて、絵画の影響も受け印象派音楽と呼ばれる音楽技法を確立しました。
E .Chabrier ジャーヌのための唄(マンデス)
G. Faure 一番楽しい道(シルヴェストル)
G. Faure 月の光(ヴェルレーヌ)
C. Debussy 月の光 ピアノ独奏
C. Debussy マンドリン(ヴェルレーヌ)・バルコニー(ボードレール)
日本にはもちろん古来から「うた」はありましたが、旋法も歌い方もちがい、洋楽方式の歌曲がはじめて作られたのは日本が鎖国を解いてヨーロッパ文化を受け入れ始めた明治時代です。1898年(明治31年)東京音楽学校を卒業した滝廉太郎は、在学中に「荒城の月」「花」など優れた歌曲を書き芸術的歌曲への道を開拓しました。
1886年生まれの山田耕筰は東京音楽学校声楽科を卒業しベルリンに留学します。北原白秋等と優れた歌曲を書いていますが、それまでの日本の伝統音楽を西洋音楽に融合させ日本語を大切にしながら大らかな格調高い歌曲を残しました。
中田喜直は1923年に「早春賦」の作曲家、中田章の息子として生まれ、東京音楽学校で歌曲のピアノ伴奏を通じてドイツ歌曲の研鑽を積みました。戦後はフランス歌曲に影響を受けるようになり、日本人の荒廃した心を救おうと、童謡集から詩を選び歌曲の作曲を始めました。
團伊玖磨は1924年に生まれ、「音楽は万国共通語であり平和への道しるべ」と考え、作曲家を志し、東京音楽学校で猛勉強しました。恩師橋本国彦の勧めで四谷文子の自宅で歌曲を多く伴奏し、歌曲やオペラを作曲することになっていきます。
中田喜直 風の子供(竹久夢ニ)・おやすみ(三木露風)
團伊玖磨 紫陽花(北山冬一郎)
そして歌曲の歩みは今も続いています。その歩みに私たちも及ばずながら携われることを、幸せに思っております。
最後に今夜お集まりくださいました聴衆の皆様と共に全員で日本人の誰もが愛する歌をご一緒に歌いましょう。
山田耕筰 赤とんぼ(三木露風)
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